菅江真澄のこと

2017年1月 9日 (月)

秋田の景色=旭川=

1月9日(月) cloud rain

今日が成人の日で祝日となっている。

一応国旗を掲揚して祝日を祝ったものの、昨年は11日が成人の日で祝日だった。毎年日曜日によって祝日が変わるのは、なんとなく違和感がある。

ところで、下の写真は秋田市の中心部を流れる「旭川」である。三丁目橋から上流と下流を眺めた写真だが、私の好きな秋田市内風景の一つである。

実はこの「旭川」という名称ですが、昔は決まった名前がなく「仁別川」とか「泉川」などと呼んでいたらしい。

江戸時代後期に「佐竹義和公」からこの川に名前をつけるよう命じられた家臣「那珂通博」が「仁川」と提案したところ、良い名前であるが、和歌にはどうだろうか?と言われたとのこと。

それを聞いて、当時久保田城下に逗留していた「菅江眞澄」が、川の上流が太平山の朝日嶽から流れ出る旭又沢であることから、=旭川=がどうかと那珂通博を通じて提案したとのことである。

義和公は「旭川という名は歌にもよく、川を祝う心もふかく、まったく新しくつけたのでもなく旭嶽より落ちる流れをもって名付けたものである」と大いによろこんでくれたそうである。以来旭川という名前が定着したとのことです。

(参考図書:田口昌樹著 「菅江眞澄秋田の旅」)

 

 

 

                  diamond

Dscf9079_640x480

三丁目橋から旭川の上流(二丁目橋方向)を望む

Dscf9080_640x480

三丁目橋から旭川の下流(四丁目橋方向)を望む

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月 7日 (土)

菅江眞澄新春講演会

1月7日(土) cloud

小寒もあっという間に過ぎ今日は七草です。

朝インスタントではありますが七草粥を頂き、今年の無病息災を祈った。

そして今日の午前中「菅江眞澄新春講演会」が協働大町ビルで開催された。今日の講演は秋田大学教授で鉱業博物館長の今井忠男氏の「菅江眞澄が歩いた阿仁鉱山」であった。

先生が菅江眞澄の歩いたルートを実地で確認し、図絵と現在の風景を対比して当時と変わった点や、阿仁鉱山と院内銀山との関わり等について解説され大変有意義な講演会であった。

Dscf9078_640x480_640x480朝頂いた七草粥


Dscf9090_640x480講演会の模様

Dscf9091_640x480講演する今井忠男先生

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年7月18日 (土)

菅江真澄の墓前へ参拝

7月18日(土) cloud rain

 今日秋田市の古四王神社社務所において、菅江真澄研究会平成27年度総会が行われ出席した。

 当研究会は秋田県を中心に全国に200名ほどの会員がおり、今回の総会にも遠くは岐阜県から出席した熱心な会員もおりました。

 総会終了後恒例の学習会(研究発表)があり、その後菅江真澄の墓前参拝をしてきました。今日は真澄没後187回忌にあたるとのことでした。

           *

Img_0166_640x480総会で挨拶する小笹会長代理。役員改選で新会長に就任。

Img_0169_480x640総会終了後「栗本本《月の出羽路十六》をみる 諏訪神社神幸祭図絵を中心に」と題して美郷町の当研究会理事 高橋悦央氏が研究発表した。 

Img_0171_640x480美郷町出身栗本治郎作写本?

Img_0182_640x480菅江真澄の墓前に参拝する会員。

Img_0187_480x640   Img_0192_480x640
小笹新会長が墓石に水をかけみんなで参拝した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年11月13日 (水)

真澄の見た久保田城下町

11月13日(水) 小雪から曇り(snow cloud

 今日中央公民館で行われた中央高齢者大学で「真澄の見た久保田城下町」と題する講話を聴く。講師は秋田県立博物館 学芸主事 松山 修先生。

 内容としては、真澄の書いた随筆≪久保田の落ち穂≫の中の<序文><むぎなは><とらのをほり><もへら><あさ日川>の各項目について松山先生から原文の読み方を教えてもらい、中身を解説してもらうという面白い講話だった。

 <むぎなは>では、今の大町5丁目に江戸時代にそうめんを作っている所があったこと。関連して今の稲庭うどんは江戸時代からあって、そのルーツは由利郡本荘であった。

 <とらのをほり>では、今の千秋公園の北東手形虎の口に虎の尾堀という堀があって、真澄はなぜ虎の尾と呼んだかその意味を考えた。

 <もへら>では、久保田言葉の「もへをしょわせる、もへらかす」などという方言に興味を持ちその意味を考察している。

 <あさ日川>では、今秋田市を流れる旭川は、昔仁別川とか泉川と呼ばれていた。家老の那珂通博が藩主義和公からいい名前をつけるよう命じられ仁川(じんせん)ではどうかと進言した。しかし藩主からいい名前ではあるが、和歌には向かないと言われた。真澄はそのころ太平山に登山しており、この川が旭岳から流れ出ることを知っており、旭川という名を那珂通博を通じて提案した。

 藩主は旭川という名は歌にも詩にも良く合い、川を祝う心も深いと喜ばれた。、以来旭川という名前になったという。

Dscf8336_640x480真澄が名付け親の旭川上流

Dscf7752_640x480「旭川」命名由来碑 一丁目橋と二丁目橋の間の「さいわいばし」にあり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年3月 5日 (火)

男鹿と菅江真澄

3月5日(火)cloudsun

 今日は暦の上で啓蟄。虫たちも土の中から外に出てきたいでしょうが、今年はまだ雪が多く、とても這い出ることができずに戸惑っていると思う。

 それでも虫たちも土の中で間もない春を感じとっていることでしょう?

 今日は菅江真澄研究会の学習会があり、会員でもある男鹿半島案内ボランティアの会の佐藤ミチヨさんが~「男鹿五風」にみる民話について~と題しての発表があった。

 200年前、真澄は何度も男鹿半島を訪れ、男鹿の五風(男鹿の秋風、男鹿の春風、男鹿の鈴風、男鹿の島風、男鹿の寒風)に民話をはじめ男鹿の魅力をつぶさに記録し、数々の図絵とともに残している。

Dscf3560_640x480
真澄の足跡を語る佐藤ミチヨさん。服装も真澄の常かぶりでした。

Dscf3565_640x480_3

佐藤さんは語りべでもあり、「びんぼのかみ」と「ぞうぎん」という男鹿に伝わる民話を披露した。

Img_0001_379x640

笹の葉で作ったナマハゲをプレゼントしてくれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 5日 (火)

[けふのせばのゝ」

2月5日(火)snow

 午前中市内の文学資料館で菅江真澄研究会の学習会が開かれ、会員の工藤正行氏が~日記「けふのせばのゝ」を歩く~と題する発表を行った。

 日記「けふのせばのゝ」は真澄が天明5年(1785)に今の鹿角から岩手・宮城を歩いた8月26日~10月1日までの日誌である。

 当時は南部領だった鹿角のことについては、錦木塚の悲恋物語や、大日堂の歴史(だんぶり長者)、鹿角・米代川の由来など興味深い内容について発表があった。湯瀬の「糸宿と棹鹿」の話も面白かった。

Dscf3276_640x480
講師の工藤正行氏

Img_0002_640x453

学習会資料

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年1月19日 (土)

新春菅江眞澄講演会

1月19日(土)cloud

 今日平成25年「新春菅江眞澄講演会」が秋田文学資料館で行われた。

 講師は菅江眞澄研究会会長田口昌樹氏で「菅江眞澄の肖像画の諸相」-菅江眞澄と出原家の人々ーと題する内容であった。

 真澄は文政11年(1812)8月、板見内(現大仙市)に入り里長出原三郎兵衛と出会いしばらく滞在する。この時当主が真澄のために「ただ一枚の肖像画」を残してくれた経緯など、興味深い話を沢山聞くことができた。

S0013174_640x480
熱弁をふるう田口昌樹氏

Dscf3179_310x640_2

能代市の杉本家が所蔵するただ一枚の肖像画を複製したもの。作者は不明であるとのことである。肖像画に添えられている和歌は、真澄が30年前に津軽の五所川原で詠んだ~春雨のふる枝の梅のしたづく香をかぐはしみ草やもゆらん

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 6日 (木)

真澄終焉の地

9月6日(木)rainoncloud

 昨日玉川ダム視察の帰路、菅江真澄終焉の地と言われている旧田沢湖町梅沢を訪ねた。

 菅江真澄は秋田での最後の旅に角館の雲然から梅沢に移り、肝煎大石清右衛門家に滞在し文政12年(1829年)76歳で亡くなったといわれている。(一説によれば角館の神明社で亡くなったとも)

Img_6963_640x480_3
現在の大石家は当主大石淳氏であるが、今も湧水をたたえる池と深い木立の広大な屋敷があり、当時をしのぶことができる。

Img_6962_640x480
大石家の正門

Img_6961_640x480
屋敷を取りまく池

Img_6965_640x480
菅江真澄も訪ねた思われる梅沢の金峰神社の山門

Img_6969_640x480_5

Img_6969_640x480_3杉古木並木の金峰神社参道

Img_6973_640x480
馬頭観世音を祀っている金峰神社。真澄は体調が思わしくないため梅沢のことや、金峰神社のこと、田沢湖伝説のこと等を記録に残すことができずに亡くなったと思われる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月10日 (火)

菅江真澄と鉱山

1月10日(火)cloudsun

 今日秋田市の文学資料館で行われた「菅江真澄研究会」の学習会に参加し、「菅江真澄と鉱山」について元秋田大学教授金児紘征氏の発表を聴く。

 江戸時代、秋田は全国屈指の鉱山地帯であった。何にでも好奇心あった菅江真澄は鉱山にもことさら深い関心を持ち、院内、阿仁、大良、箭櫃、大葛などの鉱山を歩き、日誌などに当時の貴重な記録を残している。

Img_5148
学習会の模様

Img_5150
発表する金児紘征氏

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年9月10日 (土)

菅江真澄の明田富士山

 9月10日(土)cloudrain

 秋田県立博物館友の会主催で秋田市明田の日本一低い富士山周辺の石碑や民族遺跡を訪ね、江戸後期の紀行家菅江真澄の足跡を偲んだ。講師の田口昌樹菅江真澄研究会会長の案内で、秋田市大町から当時真澄が歩いた道を徒歩で明田富士山まで歩き、山頂と周辺の史跡を学んだ。

Img_3564
出発点は秋田市大町4丁目の菅江真澄と親交のあった鳥屋長秋の旧宅跡。

Img_3574_3

明田富士山の登山口。

Img_3578_2

山頂での田口会長。

Img_3585_3  Img_3581
山頂の富士権現     山頂から秋田駅付近を望む






Img_3588_3


Img_3615


Img_3614



Img_3588

| | コメント (0) | トラックバック (0)